尻無川の瓦屋根の歴史

尻無川の瓦屋根の歴史

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新しくも懐かしい街並みを見守り続けて

実は知る人ぞ知る、屋根材専門家集団です。

大阪ドーム球場のすぐ近く、大阪市港区の尻無川沿いに戦前から屋根材の問屋街があることを知っていますか。 ここには多くの屋根材卸問屋があり昔ながらのレトロな感覚を残している町です。

尻無川

建築関係者からもあまり知られていない大阪市港区の問屋街ですが、古来からの屋根文化を大切にしながらも新しい技術を取り入れており、一般の方々も屋根の欠陥時にご相談いただけたらお力になれると考えています。

大阪ドーム近辺の街並み

知られざる瓦問屋の実力

当組合の歴史を振り返る時、当時の社会や生活、地域経済を知る上でも大いに参考になる文献があります。
東大阪短期大学教授で地方史家の伊勢戸 佐一郎先生が著わしたその一節がこちらです。

Chamber 1992.10
賑わいて大阪⑬
<町並みから見た専門業者集団の系譜>

知られざる瓦問屋の実力
― 尻無し川沿いに不動の街を見る ―

東大阪短期大学教授・地方史家 
伊勢戸 佐一郎

昭和9年の室戸台風は大阪を中心に猛威をふるったが、当時の新聞をみると、復興資材として畳100万枚・瓦1,000万枚が必要と報道されている。

この直前ごろには淡路島算出の瓦が京阪神をはじめ和歌山・徳島に向けて活発に送り込まれていた。明治32年に同地の村居佐平のリードで古くからの淡路陶業の中心地であり阿萬村に創設された同業製瓦組合が主体であったが、これより先に建築用タイルの製造を明治18年から始めた淡い陶会社(現タントー)の成功に刺激を受けたものといえよう。海の男、髙田屋嘉兵衛の出生地である都志もまた「都志の港を出入の船は土をお金にかえてくる」と謡われるほど製瓦業が盛んであった。

このように船積みされた瓦の入ってくるのが、大阪では尻無川であり、そこに一刻も早く荷物を受け取る問屋が進出してくるのは自明の理であった。

昭和12年当時、私のつくり上げた町並み構成表に従うと、境川の南側から南に向かって尻無川沿いに、楠木勇吉店・藤村五郎店・興津秀太郎店・松元岩一店・松良商店(相良丑松)・船橋瓦商店(船橋清太郎)・喜馬喜三郎店・船越商店(船越藤吉)・新居新吉店・原竹雄店・津田茂吉店・雨堤商店(雨堤好)・津井製瓦販売購買利用組合・岡隈商店(岡隈栄一)が点在する。

それらの瓦問屋と共存していたのは、海運業者と石油取扱業者であり、船具業者・薪炭業者であり、鉄工業の人たちであったが、薪炭業者は木津川沿いが主力であったから、ここでは問屋街といえば瓦業者である。 少し離れて興津喜代蔵店・藤本国太郎店、さらに離れて髙松平太郎と神治屋(神谷地三郎)が知られていた。

これらのうち、相当数の業者が現在もこの地に所在するのが何とも頼もしい。大阪市内の他の専門業者集団の大半が次代の推移に伴って故地を離れて行った現時点で、不動の地域を余り世に知られないで確保していること自体すばらしい業者集団といえる。それは市中の河川が多く埋め立てられ、尻無川も最上流部が埋められた中で川筋をもとのまま維持できた賜物なのである。主生産地が淡路島南部であり、陸上輸送よりも海路に頼る方がはるかに低廉簡単であることによって、この尻無川沿いの地が選ばれているのだから、移転などを考える必要は全くなかった。明治40年に大坂瓦の故郷瓦屋町で創業した興津一族の瓦虎商店をはじめ、湊町駅西で道頓堀の住吉橋に所在した瓦雪商店(現在はなにわ筋西側)の葭一族の淡路瓦興業所(葭義一)や、前に太字体で掲げた昭和10年代の業者が今やこの地に集結している。